2014/05/17

植原亮『実在論と知識の自然化』感想

【感想】植原亮, 『実在論と知識の自然化:自然種の一般理論とその応用』, 勁草書房, 2013年.

紹介

本書は「自然種 (natural kind)」について日本語で議論している貴重な研究書である。著者の博士論文をもとに書かれた本書は、リチャード・ボイドの議論を中心として、単に欧米の議論を紹介するのではなく、彼らの議論うちにある粗さやギャップを埋めたうえで、「自然種の一般理論」を構築し、その理論の適用することまでを論じる。この「一般理論」のもつ射程は広く、単に哲学に留まるものではなく、多くの個別科学に関連する可能性がある。このような体系的哲学の試みは非常に貴重で、多くのひとによって読まれ、個別領域について議論を深化させる価値があるものと感じられた。

 本書の概要は、著者自身が結論において要約しているので特に付け加えるものはないが、簡単にまとめてみよう。第1部「実在論の基本的枠組み:自然種の一般理論」では、まず自然種をめぐる哲学史を概観し(第1章)、そのうえで「自然種の一般理論」の核となる主張を明らかにする(第2章)。第2部「応用問題:個別領域への適用」では、「自然種の一般理論」を生物種(第3章)と、人工物(第4章)に適用することを通じて、その理論の妥当性を示す。次の第3部「知識の自然化」では、「自然種の一般理論」を知識に適用する、つまり認識論を構築することに当てられる。最初に「知識の自然種論」を中心とした認識論の自然化のアプローチの概略と懐疑論への対応策が述べられる(第5章、第6章)。続く第7章では、「知識の自然種論」の外在主義的性格をもとに、知識が「認知的ニッチ構築」を通じて個人を超えた時空間に拡張されることが主張される(「拡張した知識」)。この「拡張した知識」によって人間の知識のメカニズムは説明することができ、よって知識が「知識の自然種論」によって説明することができると述べられる(第8章)。簡単に言うと、第1部で一般理論を構築し、第2部で存在論を、第3部で認識論を扱う体型的著作ということになる。

感想

はじめに

上記で述べたように本書は、広い範囲で多様な論点を持つ。全てについて感想を述べることはとても無理なので、この読書感想文では第1章「自然種論の系譜」および第2章「理論的問題」と第3章「生物種の存在論を構築する」の3つの章についての感想を書くことにしたい。つまり、核となるアイデアと生物種への適用の部分だけを扱い、本書のもう一つのテーマである「知識の自然種論」はあまり扱わない。

第1章「自然種論の系譜」への感想

この2つの章は著者が「自然種の一般理論」と呼ぶ、本書の核となるアイデアが述べられる個所である。ボイドを援用し、著者は「自然種」が3つの条件によって特徴づけられると述べる(p. 36)。すなわち、(1)性質群の恒常性、(2)機能的一般化の成立、(3)メカニズムである。まず(1)の部分での感想を述べたい。著者は次のように述べる。
「自然種に属する個体は、単一の性質ではなく、それに特徴的な性質の一群として出現する。(…)外部に変化が生じてもそれに耐えうるような安定したひとまとまりをしている」(p. 36)
「自然種を『恒常的性質群』と表現するとき、「恒常的」の語が意味しているのは、その性質がどのような場合にも必然的に生じる、といったことではなく、その性質群が恒常性と呼べるようなまとまり方をしている、ということ」(p. 36)
「多くの場合、自然種の探求は特徴的な性質のひとまとまりを対象として選び出すことから出発し、探求対象としている自然種の性質をさらに見出していく、という仕方で徐々に認識が深められていく。そしてこれが可能なのは、世界の側に恒常性を備えた性質群が存在しているからにほかならない」(pp. 36-7)
ここで、自然種を恒常的性質群であるととらえる見方が示される。たしかに、一般的に生物種がその輪郭が曖昧ながら安定しており、まとまりがあるように見えるし、そのように捉えることも可能であると思う。しかし、そのまとまりや安定性が、世界の側に実在しているという主張は簡単に理解できるものではない。この主張は、(3)メカニズムの論点と強く関わる。そこで著者は次のように述べる。
「自然種には、その基礎となる一定の構造ないし基底的メカニズムが存在している」(p. 39)
「いったんメカニズムが解明されると、メカニズムもまた性質ないし性質の集合である限りは、恒常的性質群の中に数え入れられるようになる。そのとき、恒常的性質群は、単なるひとまとまりの性質の集合ではなく、性質相互が因果的に結びついた構造を備えたものとして捉えられるようになっている」(p. 41)
要するに、世界の側に実在する基底的メカニズムによって因果的に結びついた恒常的な性質群が自然種であり、だからこそ帰納的一般化が成立するということをなのだ。しかし、この「世界の側に実在する」という主張ができるのはなぜなのか。恒常的性質群として自然種が3つの条件を持つことを理解しながらも、なぜそのような主張ができるのかわからない。これらの章に先立つ序章「自然主義の体系化に向けて」という章では、明確ではないものの奇跡論法のような形で実在論を採るべき理由が述べられている。すなわち、「こうした知識が成立するのは、ひとえに、実在的対象が単なる偶然によってではなく、いわば『存在論的基盤』によって支えられているからにほかならない」(p. 6)。このミリカンの主張の「存在論的基盤」を著者は基底的メカニズムと言い換え、実在論の根拠としているのだろう。

第2章「理論的問題」への感想

この章では、実在性についての議論が展開される。上記の3条件の結びつき度合いを著者は「理論的統一性」と呼び、「ある対象が実在的だといえるのは、それが理論的統一性をもつことによる」(p. 44)と主張される。すなわち、「理論的統一性の高低を実在性の強度として見る」(p. 45)ということになる。同様の主張は繰り返される。
「経験的探求が進展し、十分に成熟した認識・理論を手にすることができたとして、それでもなお対象が示す理論的統一性の低さは、まさしくその対象の実在論的なありようそのものを反映している」(p. 45)
「世界とは強弱さまざまな実在性を備えた諸対象が構成するもの」(p. 46)
「世界は、おおむね相互に独立している実在的対象によって区切られうるとしても、完全に原子論的な姿をしていると考えるべき理由はない」(p. 46)

また基底的メカニズムは、自然種が「類似しているものを集めた恣意的なものに過ぎない」という批判を封じるものだ。ただし、基底的メカニズムと自然種は1対1の関係ではなく、「多型的実現可能性」というn対nの関係を持つと主張される(p. 48)。しかし、もちろん「基底的メカニズム」も本質主義的な自然種観によるものとは区別される。このような見方に対して「そのように実在性の程度差を認めると実在が無制限に拡大するのではないか」という当然の疑問があるが、これに対して著者は「理論的統一性」を「見せかけの理論的統一性」と「見せかけでない理論的統一性」とに区別し、「見せかけでない理論的統一性を備えた対象には無数の性質が発見されていく」(p. 62)と述べることで反駁する。これらの議論などから、著者は自らの実在観を次のようにまとめる。
「あるものが世界の因果的構造において成立する一単位であるという意味で実在的対象であるのは、それが固有の理論的統一性を備えた対象であり、そこに無数の性質が見いだされていくときである」(p. 66)
ここで私は前章で感じた疑問「なぜ自然種が実在すると考えなければならないのか」ということに加え、2つ目の疑問を感じることになる。それはすなわち「実在に程度差があるというのは、どういう意味なのか。それは実在ではなくて、理論や説明に洗練度合いがある、ということではないのか」というものである。

第3章「生物種の存在論を構築する」への感想

この章において著者は、種個体説(Species individualism)への批判を通じて、生物分類群(taxon)たる生物種(species)が個体(individual)ではなく、自然種(natural kind)であることを示すことを試みる。そしてその上で、前章まで論じてきた「自然種の一般理論」を生物種にも適用する。

 まず前半の個体説への批判から見ていこう。著者は個体説が4つの特徴を持つと整理する。すなわち、(1)時間的に限局された連続性、(2)空間的に限局された連続性、(3)進化と非自然種性、(4)本質の不在(pp. 75-79)である。さらに、これらの特徴をから個体説には2つの含意があるとする。(A)個体説にとって、生物種と個々の生物個体は「種-成員関係」ではなく「全体-部分関係」が成りたち、個々の生物個体という部分には統合力が働いているということ(pp. 81-82)。(B)生物種には物理法則のような法則が働いていないこと(pp. 82-83)がそれだ。

 マイナーな点の疑問ではあるのだが、私は(A)の統合力についての議論はうまく理解できなかった。というのも、私の理解では種個体説における個々の個体は相互作用が働いているものの、それはその種になるように統合するような力ではないと考えるからだ。相互作用の論点は、個体説にとって種を定義するようなものではなく、ある種と別の種を識別するときの基準として使われるものではないか。その境界は曖昧であることを許容されているし、「統合力」などという形而上学的概念を導入する必要はない。観察により変異のギャップが識別できればそれで問題ないはずだ。

 さて、著者は個体説に対して弱点が2点あると指摘する。(1)個体説のいう、生物種の個別化という主張は無性生殖と中間段階の個体をうまく扱えない(pp. 84-86)。(2)個体説のいう、科学法則観は限定されすぎていて、自然種の特徴を捉え損なっている(pp. 86-88)。そして、この2つの弱点を克服するためには、生物種を恒常的性質群としての自然種として観ることが必要となると主張される。生物種は個体ではなく、「理論的統一性」備えた恒常的性質群としての自然種として捉えることができる(pp. 88-90)。生物種において帰納的一般化が成立するのは、そこに基底的メカニズムがあるからであり、その解明こそが重要な課題である。歴史的限局性は一定の時空内で存続する基底的メカニズムの結果であると捉えることができる。また、無性生殖は境界事例を許容する恒常的性質群としての自然種にとっては問題にならないし、中間段階もまた同様に問題ならない(pp. 88-93)。

 ここでの私の疑問は次のようなものだ。それはつまるところ、著者が個体説の弱点の根拠が、分類学の慣行と実際に行われていることの実践と乖離があること離れてるということにあると指摘していることにある。たしかに、分類の実践と種概念が異なることは問題だと考えることもできる。しかしながら、ソーバーが正しく指摘するように、その難点を補って余りある利点があれば個体説を採ることは問題がない。だが著者は逸脱例により個体説全体を棄却してしまう。これができるためには、著者の指摘する難点がとてつもなく深刻で、既存の分類学を崩壊させてしまうなどのインパクトがあることが必要だと思う。しかし、そのような議論はない。そもそも、無性生殖や中間段階の取り扱いについては、分類学者の多くが認めるであろう生殖隔離基準をもとにした生物学的種概念でも例外的な扱いが求められる事象であろう。
 さらに大きな問題としては、明示せずに分類学のもつ規範的な議論を組み入れてしまっているように見えることである。生物学における「種問題」とは「種とは何か、それはどのように定義されるものなのか」という問題を扱うものであるが、これは問題の立て方からもわかるとおり、何通りもの定義があるし、現にさまざまな定義が提案されてきた。そこで「種問題」とは、提案のなかからある基準でそれらの提案を評価するという問題なのである。その評価は「明快さ・理論的動機・保守性」の観点から評価されるものだ。著者は、こうした種問題の評価の観点を明示せずに、個体説を逸脱例のみで棄却している。これはよくわからない。結局のところ、著者は個体説が生物学者の慣行を破るものだとしか述べていない。その慣行やその慣行に基づく分類や種概念が、種問題のなかでどのように評価され、それが維持されうべきものなのかどうかも、言及しない。実際には、種の定義は数十以上の提案がなされ、かなりの年月をかけて議論されてきた問題であるにも関わらず、そのような議論がこれまでなされてきたという分類学における実践は無視されてしまっているように思える。そして、そのような「よい種の定義とはなにか」という論点を明示しないままに、恒常的性質群が分類学の実践を捉えていると主張されても、どのように受け取ればいいのかわからないのである。
 そもそも、個体説の反論とされている事例は、実際のところハルやギゼリンがその主張を形作るときに依拠していた生物学的種概念の反例でしかない。個体説自体は生物学的種概念を前提としたものではない。生物種は変化していくものであり(これは進化論の前提でもある)、どのような基準で種を区分しようとも、個体として捉えられるものだ。

 次に著者は、エレシェフスキーのような種カテゴリー多元主義を自然種の一般理論に収容することを目指して議論を展開する。著者は多元主義のそれぞれの定義のどれもが恒常的性質群を形成しており、それゆえに基底的メカニズムとしての性格を有し、統一をもたらしているとする(pp. 93-97)。結局のところ、多元主義において恒常的性質群の何に注目するのかという強調点の相違によって、異なる探求の枠組みが存在するものの、種カテゴリーは統一性があり、多元主義を基にした規約主義もまた挫かれる。ここから種カテゴリーの実在論が主張される(p. 98)。著者は、これらの見解から4つの変則事例を取り扱う。(1)環状種、(2)異星生物、(3)遺伝子操作技術による新種、(4)人種が取り扱われるが、そのどれもが自然種の一般理論によって収容されると述べられる。

 本章の最後で、著者は「個体と種」「類と種」という存在論における伝統的区分に疑いの目を向ける。というのも、自然種の一般理論の立場からは、個体もまたきわめて自然種的であるからだ(p. 110)。個体もまた自然種的に捉えることができるならば、伝統的な「個体と種」「類と種」などの区別は相対的な区別でしかない。この点は、種の規約主義にとっての反論となる。すなわち、「規約主義を徹底するなら、個体もまた(中略)言語的規約によって生み出される名目上の対象に過ぎない、というべき」であり、規約主義が種が規約的なものでありながら、生物個体のみ実在性を主張するのは不整合であるという問題が生じる。仮に生物個体が実在すると主張するなら、生物種の実在性を認めないことは説明するのが難しい(p. 112)。また、種カテゴリーについても経験的探求のなかで、発見される性質が乏しければ実在しないと考えてよいが、そうでないならば理論的統一性が乏しくても実在しているだろう。界のレベルで決定的な分類基準が提出されていない現状にはそうした背景があるかもしれない。まとめると、次のようになる。
「自然種についての本書の理解からは、個体も類も自然種的な理論的統一性を有するものとして捉えられる。これが示唆するの、およそ実体ないし実在的対象に属するものは、何であれ自然種的ああり方をしている、ということにほかならない。この意味では、伝統的な「個体-種-類」という存在の系列には、どこもはっきりした境界があるわけではないのである」(pp. 113-114)。
これらの主張にも疑問を感じる。個体が実在するにもかかわらず、種が実在しないという主張は一貫していないと著者は述べるわけだが、それはそもそもの問題であった観察できない種カテゴリーや種タクソンが実在するのか否かということを忘れているのではないかと思うからだ。「観察可能/観察不可能」という区分は重要な区分である。観察不可能なものを観察可能なものによって説明することは「理論」と呼ばれることになるが、そもそも生物個体は観察可能なものであり、観察可能なものを実在すると述べることは種の規約主義にとって何の問題もないはずだ。種の規約主義は観念論や経験論を採る必要は必ずしもない。というのも、種タクソンや種カテゴリーの問題は、それが直接観察することができないという点にあるのだから。もちろん、生物個体が容易に観察できないケースは実際にある。「群体」と呼ばれるものがそれで、管クラゲ類やサンゴはその典型的な例だろう。しかし観察できないわけではない。もちろん、種の規約主義は経験論的に考えることも可能だ。そうだとしても、個体の認識は経験的に十全なものであるだろう。

情報学との連関

ここで改めて著者の生物種に関する議論を分類学の情報学的観点から考えてみることにしたい。分類の実践ではいくつもの個体を採取し、それらの集団の変異の集団間の形質ギャップを認識することによって複数の種に分類する。このとき、生殖隔離基準によって分類するのが一般的な分類(=生物学的種概念)であり、これは集団間の交配可能性つまり同一の遺伝子プール内かどうかを判別しているものである。しかし、この基準は無性生殖生物や化石生物には適用できない。現在の多種多様な種概念はこうした問題を解決をするための努力であるということもできる。著者の自然種の一般理論に生物種を収容しようとする試みは、たしかに著者の言うように、変異に対して柔軟で、特に本質主義と比較して取り扱いやすい。この利点は重要かもしれない。しかし、自然種の一般理論の実在論は、はたして分類学の実践と整合しているのだろうか。
 実際の分類学に関する疑問は、著者が分類学の情報学的側面を考慮していないように思われる。分類学における命名の手続きを大まかに述べると、まず個体を採取し調査し、さまざまな形質からギャップを認識し、それを種の境界とする。このときに種の認識をした個体の標本をタイプ標本として、学名が命名されることになる。近年、このときに利用する形質の情報について情報処理として取り扱えるように「タクソン・コンセプト・スキーマ」というXMLで記述できるスキーマが提案されている。このスキーマが仮に多くの生物群で活用できるようになれば、種名の役割は小さくなるだろう。分類には形質ギャップの認識とそのギャップを認識した形質(表徴形質)が重要である。これは本質主義的な伝統的分類学の特徴でもあるが、仮に多くの形質が情報として利用可能であれば、学名や種はそれぞれの形質情報をまとめるラベルにすぎなくなるだろう。これは一種の規約主義であるように思われる。このような見方にとって、種が実在すると考える必要は必ずしもないからだ。
 さらに、DNAバーコーディングによる新種の判定という行為もまた、著者の議論に対する疑問を与えるものだと思う。DNAバーコーディングを利用した新種の判定は、採取した個体標本のDNA情報をデータベースで検索した結果、既知の種に対応するものがない場合、新種と判断される。基底的メカニズムや機能的一般化という自然種の一般理論が持つ特徴は、このプロセスにおいて不用である。たしかに、DNAバーコードのデータベースに登録されるタイプ標本のDNAバーコードは分類学者による伝統的な手法に基づく同定を経ていることが必要ではあり、そこで恒常的性質群であるかどうかの判定はされていることにはなるが、分類実践において自然種の一般理論が主張するような探求の過程を経る必要は基本的になくなるのではないか。
 また実際に保全生物学においては、種数を使用した生物群集の計測では情報が少なく、系統学的な手法を使用した計測が行われていることもある。種は指標的概念としても必ずしも常に必要なものではないどころか、不十分なものにもなりうるわけである。結局のことろ、種の名前と生物個体あるいは生物集団の間には必然的なつながりは何もないのではないか。もちろん科学的探究を進めるためには、生物の情報は整理されており、容易に利用が可能で、保守性に優れており、明快で、その利用目的に沿っていることが必要だろう。しかし、それだけのことである。

実在論

ここまで考えると、著者は分類は目的に合わせて複数のやり方が可能であるかもしれないが、しかしそれらはそれぞれ基底的メカニズムをもっており、帰納的一般化が可能な恒常的性質群であることには代わりがないと言うかもしれない。そして、それゆえにやはり生物種や自然種は実在するのだ、と。しかし、当初から書いていることではあるが、著者の実在論についても多くの疑問がある。ここでソーバーの議論を紹介することを通じて、著者の実在論について考えてみたい。
 ここで紹介するのはエリオット・ソーバーの「二つのコーネル実在論」という論文である。この論文では、前半でスタージョンの道徳的実在論を、後半でボイドの科学実在論を批判している。彼の議論は尤度の法則に基づき、ボイドやスタージョンの実在論が説明的連関をもっていないことを指摘している。まず尤度の法則とは、
観察Oが仮説H1よりも仮説H2を選好するのは、Pr(O|H1)>Pr(O|H2)のときであり、かつそのときに限る
ということである。では、ソーバーの議論にならって、ボイドが取り上げているエディントンによる観察データと一般相対性理論の関係を例にとって検討しよう。
Pr(エディントンのデータ|一般相対性理論) > Pr(エディントンのデータ|古典物理学)
これは疑いなく正しい。また次も正しいと認められるだろう。
Pr(エディントンのデータ|科学的実在論が真である) = Pr(エディントンのデータ|経験論が真である) = Pr(エディントンのデータ|虚構主義は真である)
では、これらを組み合わせたものはどのようになるか。
Pr(エディントンのデータ|一般相対性理論&科学的実在論が真である) = Pr(エディントンのデータ|一般相対性理論&経験論が真である)

この結果はボイドらの期待に反したものであろう。というのも、前者の確率のほうが、後者の確率から高くならないと尤度の法則を満たさず、科学実在論を選好すべき理由がなくなってしまうからである。では、著者の議論についてこれらの議論を適用するとどうなるだろうか。著者は自然種について実在論を採るべき理由として、実在論が規約主義に比べて「有用性」という点で勝るのだと考えている(「ある自然種がもつカテゴリーとしての有用性を説明するのは、規約主義では困難であるがゆえに、実在論が動機付けられる」(p.18))。とはいうものの、今回取り上げている箇所で、著者はその有用性を具体的に詳しく検討している箇所はない。これは本書が実在論の内容を与えることを目的としており、実在論を採るべきであるという議論をすることを目的としていないので仕方がないところではある。しかしながら、やはり実在論は安易に仮定されているような印象はぬぐえなかった。
 実在論に関してさらに疑問を覚えるのは、著者の主張する「程度差のある実在性」という主張である。これは自然種について、種Aは実在性レベル5だが、種Bは実在性レベル70のようなことがある、と言っているように思える。そうすると、各科学理論は、それぞれ自然種を含むので、各理論は実在性に程度差がある自然種の集団であることになるだろう。ここから各理論が含む自然種の実在性レベルの分布を出すことができるように思われる。つまり、理論Xの実在性レベルの中央値は40で、理論Yの実在性レベルの中央値は55だ、というように。このとき、理論XとYが対立理論であった場合はどうなるのだろうか。爬虫類は分岐学的手法では側系統になるため、そのような分類は行わない。つまり、爬虫類という生物種は、哺乳類などの他の生物種に比べて低い実在性レベルにあることになるだろう。そのような生物種を端的に「実在しない」と考えてはいけないのはなぜなのだろうか。そして、爬虫類を認める分類体系、つまり理論的統一性の低い、実在性のレベルが低い自然種を含むがゆえに、実在性レベルの中央値が低いほうにずれるような理論を、そうでない理論と同じように尊重する必要があるのはなぜなのだろうか。あるいは、別の観点もある。理論的統一性の高い自然種は、多くの観察結果を説明するだろう。だが、カーブフィッティング問題を考えてみよう。水の沸点の関係式を求めようとして、気圧と温度を計測して、4つのデータを得たとする。これをグラフにしたとき、4つの点をすべて通過する6次方程式とまったく通過しない1次近似方程式があったときに、どちらが理論的統一性をもっているのかというと、6次方程式になってしまうように思われる。自然種の一般理論には単純性に関する規定は入っていないから、6次方程式についても実在することになってしまうだろう。もちろん、6次方程式はさらに理論が進展していくにつれて適合しないデータが増えて、理論的統一性が低くなっていくのかもしれない。しかし、それは依然として低い実在性レベルのまま実在するのであろう。このような結論が出るのであれば、低い実在性レベルの自然種はなぜその存在を認めなくてはならないのか、わからなくなってしまう。科学理論の持つ予測や説明という特徴を破壊してしまうようにも思える。

おわりに

この感想文では、本文のうちたったの3章しか取り上げることができなかったが、本書の後半の認識論についての議論はどれも面白く有益なものだった。これまで書いてきたように、残念ながら私は著者の主張にあまり賛同できなかったのだけども、そのことは本書の哲学書としての価値を下げるものではまったくない。哲学書を読む楽しみの一つは、まさに著者の主張を検討し、反論することにあり、それがない哲学書など価値がないだろう。その意味で、本書は著者の哲学的主張が詰め込まれた哲学書であり、論争することによって価値は磨かれるだろう。
 同時に、そのように読まれないとしたら、本書は取り扱いが危険なものにもなりうる。というのも、著者の主張する「自然種の一般理論」は、伝統的分類学に基づく生物種とその実在を擁護するものになるだろうからだ。分岐学によってもたらされた生物種の実在への不安をもつ生物学者にとって、本書は福音である。しかし、それが本当にそうなのかどうかは吟味を経なければわからない。それどころか、自然種の一般理論を受け入れることによって、予測や説明といった点に問題が起こるかもしれないのである。
 しかしながら、そのように哲学者と同じように生物学者が本書を吟味し、検討することができるなら、それこそは科学と哲学の間に境界線がないと考える自然主義の実践であり、あるべき探求の姿であると私は思う。本書はその共同作業の入り口になりうる貴重な本のひとつだ。

参考文献

伊藤元己, 『植物分類学』, 東京大学出版会, 2013年.
網谷祐一, 「種概念:生物哲学の観点から」, 日本進化学会(編), 『進化学事典』, 共立出版, 2012年. pp. 766-767.
Elliott Sober, Two Cornell Realisms: Moral and Scientific, Philosophical Studies, forthcoming.
エリオット・ソーバー, 『進化論の射程:生物学の哲学入門』, 松本俊吉・網谷祐一・森元良太(訳), 春秋社, 2009年.
Biodiversity Information Standards (TDWG) http://www.tdwg.org/

……あと、私が書いた修士の学位論文。