三中信宏, 『進化思考の世界:ヒトは森羅万象をどう体系化するか』, NHK出版, 2010年.
【感想】
『系統樹思考の世界』『分類思考の世界』に続く著作のタイトルは、ついにストレートな『進化思考の世界』となった。ただし、著者の述べる「進化思考」は、 これまでドーキンスやデネットが唱導してきた「普遍ダーウィニズム」とは趣が異なる。本書での「進化思考」とは「ある対象物がたどってきた歴史のパターンを復元し、それに基づいて因果的なプロセスを考察しようとする思考法」(pp.4-5)である。進化をこのように捉えようとする考え方は、特に自然淘汰理論を前面に展開しない点で、発展分岐学(パターン分岐学)の立役者ガレス・ネルソンの思想を受け継ぐ考え方であり、さらには進化論の源流のひとつであるヘッケルを復権させようという試みでもある。
本書の前半はグールドを彷彿とさせる歴史的な叙述をもとに進化思考の構成していく。、印象的な図版と興味深い科学史的著述の愉悦に浸りそうになるが、上記の進化思考の定義を常に念頭において、読み進める必要がある。というのも、後半で明確になる本書の主張が徐々に現れてくるからだ。
前著『分類思考の世界』では種問題の不毛さを語り、そこからの抜け出すための処方箋を提示していたわけだが、本書の後半はまさに種問題から抜け出したヒトが、これからどうすべきかが語られる(本書の副題「ヒトは森羅万象をどう体系化するか」の意図するところである)。本書の読みどころもまた後半にある。特に系統推定の理論について、ここまでわかりやすい記述はないと思う。正直『系 統樹思考の世界』の記述はかなりわかりにくく、そもそも分岐図という概念は系統樹とそっくりなだけに理解するのが難しい印象をもっている。この系統樹と分岐図の概念の違いが印象的に現れるのが、「祖先」をめぐる議論だ。個人的にもこの問題で昔、「ancestorとancestryは異なる概念で、云々」ということを書いたことがあり、思い出深い。
では、議論の内容を見ていこう。ある整理の仕方では、進化論は「変化を伴う由来(系統樹)」理論と「自然淘汰」理論の2つから構成される。このとき、どちらを重要視するかは形而上学的な決断を含むうえに、過去に「プロセス vs. パターン」をめぐる大きな論争を引き起こしたテーマでもある。本書の前半では、科学史的な叙述に紛れ込ませる形で前者の「変化を伴う由来」理論こそが進化の重要な要素であることが述べられる。個人的に驚いたのはこの点だ。明示的ではないが、著者がここまで突っ込んだ主張をしているのは初めて見たからだ。しかも、グールド が得意としてた歴史的な叙述をもとに構成する手法を取るとは。
しかし、本書の後半が重要なのは、次の2つの概念「姉妹群関係」「系統子」が登場するからである(「系統子」に関してはその存在が言及されるだけだが、 哲学的には重要なポイントになるので、あえて記しておく)。ここから先に述べた前著の結論の次に来る問いの回答が示される。先の問いとは「分類思考を抜け出した後に出てくる思考法」つまり「進化思考」とはいったい何か、というものである。私の理解では、本書は次の回答を示している。すなわち、進化思考とは、比較法を使っ て姉妹群関係を推定しようとする思考(=系統樹思考)をもとに、あらゆるモノを系統子とみなすことから考えはじめる思考法のことである。簡単に言うと、万物は進化する存在だという仮説をもとに、理解を進めようという思考法である。
仮にこの理解が正しいとすると、この「進化思考」やはりかなり思い切った主張をしているということになる。「進化」という語を聞いて、延髄反射で「遺伝子プール内の遺伝子構成の変化」などと答えてしまう総合学説とは一線を画す。また、冒頭に述べたがドーキンスやデネットらのアプローチとも異なる独自の主張だ。
個人的にはこの主張はとてもしっくりくる考え方だ。進化に対して、このような見方を開くことで、文化進化などの領域で新しい考え方をもたらす可能性がある。また、分断されている学問の統合への可能性も開くと考えられるからだ。しかし、疑問もある。その疑問とは「系統子」とはいったいなんなのか、ということだ。この点については、おそらく文化進化などを考える際に論点となるはずなので、今後の考察を待ちたい。
おそらく「系統子」あるいは「系統樹の切片」、昔ながらの呼び方では「OTU (=Operational Taxonomic Unit)」(この名前はtaxonomicってのが良くないが)の存在論的なステイタスは興味深い論点となるのではないか。というのも、この系統子は比較法に基づき仮設的に設定されるものなので、それ自体として存在するものではない。むしろ比較法における基本的な概念である外群(outgroup)との差によって立ち現れるものである。その意味で「差異」に基づく体系を企図しているようにも思える。このワードでドゥルーズのたわ言との共通性を指摘したいのではなく、このような考察のもとで再び自然淘汰理論との関連が見えてくるからだ。というのも、ソーバーの整理に従えば、自然淘汰は三つの要素「遺伝、変異、適応度の差」からなるが、この変異と適応度の差という差異の概念、差異を生み出す機構こそが進化プロセスの議論に他ならないからである。
やや本書から離れたことを書き連ねてしまったが、全体としては、大変楽しい読書体験ができた。ただ、前著2冊にあったカバーや本文中の仕掛けがなかったのは残念。叙述も非常にストレートで深読みの余地がないのも残念。とはいえ、きっと前著よりも多くの読者を獲得するだろうと思うし、そうなることを願っている。 もうその兆しはあるが、「進化思考」がもたらす若芽がいたるところで萌え出ずることを願って。
【あとがき】
公開にあたって、かなり加筆した。構成も順番を入れ替え、論理がつながらないところをできるかぎり(といっても飛んでいるような気がするが)直した。
感想をきちんと書こうと思った直接的な動機は、あるWEB上の書評に「哲学的立場がわからん」みたいなことが書いてあって、それに対する反論といったところ。その後もオンライン書評をみると、あまり論旨が把握されていない感じがするので、公開する意義はあるのかもしれない。
ただ、自分の話をしすぎてる感はあり。でもそうしたいからいいのだ。反省してない。
本来なら参考文献を示すべきだが、書評ではなく単なる感想ということでお許しいただきたい。たぶん、本書の参考文献にすべて載っているはず。でも、これは反省してる。
【感想】
『系統樹思考の世界』『分類思考の世界』に続く著作のタイトルは、ついにストレートな『進化思考の世界』となった。ただし、著者の述べる「進化思考」は、 これまでドーキンスやデネットが唱導してきた「普遍ダーウィニズム」とは趣が異なる。本書での「進化思考」とは「ある対象物がたどってきた歴史のパターンを復元し、それに基づいて因果的なプロセスを考察しようとする思考法」(pp.4-5)である。進化をこのように捉えようとする考え方は、特に自然淘汰理論を前面に展開しない点で、発展分岐学(パターン分岐学)の立役者ガレス・ネルソンの思想を受け継ぐ考え方であり、さらには進化論の源流のひとつであるヘッケルを復権させようという試みでもある。
本書の前半はグールドを彷彿とさせる歴史的な叙述をもとに進化思考の構成していく。、印象的な図版と興味深い科学史的著述の愉悦に浸りそうになるが、上記の進化思考の定義を常に念頭において、読み進める必要がある。というのも、後半で明確になる本書の主張が徐々に現れてくるからだ。
前著『分類思考の世界』では種問題の不毛さを語り、そこからの抜け出すための処方箋を提示していたわけだが、本書の後半はまさに種問題から抜け出したヒトが、これからどうすべきかが語られる(本書の副題「ヒトは森羅万象をどう体系化するか」の意図するところである)。本書の読みどころもまた後半にある。特に系統推定の理論について、ここまでわかりやすい記述はないと思う。正直『系 統樹思考の世界』の記述はかなりわかりにくく、そもそも分岐図という概念は系統樹とそっくりなだけに理解するのが難しい印象をもっている。この系統樹と分岐図の概念の違いが印象的に現れるのが、「祖先」をめぐる議論だ。個人的にもこの問題で昔、「ancestorとancestryは異なる概念で、云々」ということを書いたことがあり、思い出深い。
では、議論の内容を見ていこう。ある整理の仕方では、進化論は「変化を伴う由来(系統樹)」理論と「自然淘汰」理論の2つから構成される。このとき、どちらを重要視するかは形而上学的な決断を含むうえに、過去に「プロセス vs. パターン」をめぐる大きな論争を引き起こしたテーマでもある。本書の前半では、科学史的な叙述に紛れ込ませる形で前者の「変化を伴う由来」理論こそが進化の重要な要素であることが述べられる。個人的に驚いたのはこの点だ。明示的ではないが、著者がここまで突っ込んだ主張をしているのは初めて見たからだ。しかも、グールド が得意としてた歴史的な叙述をもとに構成する手法を取るとは。
しかし、本書の後半が重要なのは、次の2つの概念「姉妹群関係」「系統子」が登場するからである(「系統子」に関してはその存在が言及されるだけだが、 哲学的には重要なポイントになるので、あえて記しておく)。ここから先に述べた前著の結論の次に来る問いの回答が示される。先の問いとは「分類思考を抜け出した後に出てくる思考法」つまり「進化思考」とはいったい何か、というものである。私の理解では、本書は次の回答を示している。すなわち、進化思考とは、比較法を使っ て姉妹群関係を推定しようとする思考(=系統樹思考)をもとに、あらゆるモノを系統子とみなすことから考えはじめる思考法のことである。簡単に言うと、万物は進化する存在だという仮説をもとに、理解を進めようという思考法である。
仮にこの理解が正しいとすると、この「進化思考」やはりかなり思い切った主張をしているということになる。「進化」という語を聞いて、延髄反射で「遺伝子プール内の遺伝子構成の変化」などと答えてしまう総合学説とは一線を画す。また、冒頭に述べたがドーキンスやデネットらのアプローチとも異なる独自の主張だ。
個人的にはこの主張はとてもしっくりくる考え方だ。進化に対して、このような見方を開くことで、文化進化などの領域で新しい考え方をもたらす可能性がある。また、分断されている学問の統合への可能性も開くと考えられるからだ。しかし、疑問もある。その疑問とは「系統子」とはいったいなんなのか、ということだ。この点については、おそらく文化進化などを考える際に論点となるはずなので、今後の考察を待ちたい。
おそらく「系統子」あるいは「系統樹の切片」、昔ながらの呼び方では「OTU (=Operational Taxonomic Unit)」(この名前はtaxonomicってのが良くないが)の存在論的なステイタスは興味深い論点となるのではないか。というのも、この系統子は比較法に基づき仮設的に設定されるものなので、それ自体として存在するものではない。むしろ比較法における基本的な概念である外群(outgroup)との差によって立ち現れるものである。その意味で「差異」に基づく体系を企図しているようにも思える。このワードでドゥルーズのたわ言との共通性を指摘したいのではなく、このような考察のもとで再び自然淘汰理論との関連が見えてくるからだ。というのも、ソーバーの整理に従えば、自然淘汰は三つの要素「遺伝、変異、適応度の差」からなるが、この変異と適応度の差という差異の概念、差異を生み出す機構こそが進化プロセスの議論に他ならないからである。
やや本書から離れたことを書き連ねてしまったが、全体としては、大変楽しい読書体験ができた。ただ、前著2冊にあったカバーや本文中の仕掛けがなかったのは残念。叙述も非常にストレートで深読みの余地がないのも残念。とはいえ、きっと前著よりも多くの読者を獲得するだろうと思うし、そうなることを願っている。 もうその兆しはあるが、「進化思考」がもたらす若芽がいたるところで萌え出ずることを願って。
【あとがき】
公開にあたって、かなり加筆した。構成も順番を入れ替え、論理がつながらないところをできるかぎり(といっても飛んでいるような気がするが)直した。
感想をきちんと書こうと思った直接的な動機は、あるWEB上の書評に「哲学的立場がわからん」みたいなことが書いてあって、それに対する反論といったところ。その後もオンライン書評をみると、あまり論旨が把握されていない感じがするので、公開する意義はあるのかもしれない。
ただ、自分の話をしすぎてる感はあり。でもそうしたいからいいのだ。反省してない。
本来なら参考文献を示すべきだが、書評ではなく単なる感想ということでお許しいただきたい。たぶん、本書の参考文献にすべて載っているはず。でも、これは反省してる。