2015/07/26

「サウダージ」とは何か:細川周平の引用

最近ブラジル音楽が好きになり、いろいろ聴いていくうちに不思議に感じた「サウダージ」という言葉について、細川周平が興味深い記述をしていたので、抜き書きします。

細川周平, 『遠きにありてつくるもの:日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』, みすず書房, 2008年. 134-135頁. (第2章註4)
日本語の「思い/想い」の多重性はポルトガル語のsaudadeとだいぶ重なる。ボサノヴァの最重要曲”Chega de saudade”を「思いあふれて」と訳したのは、言葉の機微を知る人だったに違いない。サウダージは愁いの面を含めて郷愁に近い。愛着・愛情を抱いているひとやものや事柄が空間的に時間的に自分から遠く離れているときに心に浮かぶやるせなさ、切なさ、懐かしさで、ちょうど日本語の「情け」「想い」と同じように、数知れぬ詩や歌が歌ってきた。『ノーヴォ・ミシャエリス・ポ英辞典』では、”1. longing, yearling, ardent wish or desire 2. homesickeness, nostalgia”と定義されているが、感情的な重みのある概念の常で、これだけでは伝わらない部分が大きい。

ポルトガル語の話者以外にはこの感情は理解できないといい、人生、存在の意味と価値を集約させている。サウダージも情(け)もそれぞれの民族・国民の心の動きの中核を成し、倫理、道徳、美感覚、価値に大きな影響を与えてきた。人類学者ロベルト・ダマータは、なぜサウダージがブラジル論に欠かせないのか、なぜそれが国民的エートスと認められているのかという出発点から、個人が自発的に抱く感情ではなく、「我々の集団的存在の基本カテゴリー」、「文化的・イデオロギー的構築物」であり、ブラジル社会をまとめる絆になっていると結論している(Roberto Da Matta, “Antropologia da saudade”, Conta de Mentiroso: Sete Ensaios de Antropologia Brasileira, Rocco, Rio de Janeiro, 1993, pp. 17-34)。この言葉についてブラジル人は日常的に思索している。人間関係や失われた時間や未来についてこのことばで明示したり価値判断したりすることによって、複雑な階級・人種・性別構造をもつブラジル社会の心情がまとめられていると彼は考える。たとえば、「あいつはサウダージを残さず死んでいった」といえば、ロクな奴ではなかったという意味であり、道徳的な価値判断が含まれていることになる。「サウダージを殺すmatar a saudade」とは懐旧を温めるという意味で、長い別れによる喪失感を打ち消すことからきている。シコ・ブアルキはこの言い回しをひっくり返して「サウダージが人を殺す」と歌っている(”Tanta Saudade”)。郷愁は生きているというのと似た発想だ。

人類学者はポルトガル語を使う人間だけがサウダージをもつという通説を否定し、人類普遍の社会的な感情であると主張する。「サウダージはすべての社会のすべての人類に普遍的な体験——通過、持続、別離、時間に関する思索的な意識の体験——に関する概念である。サウダージはほかの文化的なやりかたにはないような時間のはかりかた、話しかた、分類や管理のしかたをもつ。サウダージはこのような要素を今あげた体験と結びつけ、その体験を他の区別する(個体化)するのだ」。

しかし、喪失や別離を伴う感情体験が人類普遍であるとしても、それが国民的エートスになるのは稀だ。ダマータは感情の哲学がずっと取り上げてきた概念と感情の問題、人類学が論じてきた国民感情(エートス)の問題を飛ばして、一挙に感情の概念の普遍性を結論している。喪失や離別がの体験、また各国民が自ら核と考える感情の通文化的な研究が次に必要とされるだろう。日本語モノリンガルの移民の心に、果たしてポルトガル語でしか表せないとされる感情が影響を与えているかどうかは即断を下せない。

ついでだが、日本では「サウダージ」はブラジル音楽の気持ちよさ、ブラジルを夢見るときのわくわく気分程度の意味に限定されている。フランス語由来の「エスプリ」が本来の意味を離れて、「フランスの洒落た感じ」として流通するのと似ている。