2012/07/21

〈紹介〉 壬生雅穂(2008). 「下伊那地方におけるミチューリン農法の受容と衰退」


壬生雅穂, 「下伊那地方におけるミチューリン農法の受容と衰退」, 『飯田市歴史研究所年報』, 6号, 2008年.

《紹介》
  • 日本におけるミチューリン運動は、1950年から始まり、1954年にピークを迎え、以降は急激に下火になった。 ミチューリン農法についてはっきりと打ち出して本を出したのは大竹博吉(ナウカ社社長)。しかし、運動のリーダーは菊池健一。彼はアメリカ黒人問題の研究者で共産党員だった。
  • 菊池健一は夫人の出身地である下伊那に疎開したことで、その地で活動を行った。
  • 日本で推奨されたヤロビ農法の具体的な手順がソ連文献にはなく、日本で考えられた独自の解釈が随所に含まれている。
  • 1951年から菊池はミチューリン農法の講演を始めて、同年にはヤロビ農法の実践も行った。機関紙『伊那の農業』を創刊。共産党の代議士の演説に随行するさいに、ミチューリン農法の話もしたため徐々に農法の知名度はあがった。
  • 『伊那の農業』は全国に発送され、各地の読者によって回覧されたのが流行の要因だった。また、一般紙や放送に取り上げられたことも全国への波及に寄与した。
  • 1953年から54年にかけて、民科や北大・京大などの研究者にもミチューリン農法の賛同者があらわれ、「日本ミチューリン会」が結成された。これが運動のピーク。
  • ミチューリン農法は単なる農業技術普及運動ではなく、農業を通じた社会改革運動の意味があった。菊池は貧農層への普及を目指したが、それは貧農対富農、農民対官僚という日本共産党の思想が背景にあった。ミチューリン運動を支持した日本の科学者文化人は、農業以外の立場からそれを擁護した。
  • ミチューリン運動は、農法という形で農村から改革を行おうとしたことに新しさがあるが、一方で日本共産党のプロパガンダとなったことが技術研究の幅を狭くした。
  • 運動の衰退の要因は複合的である。運動の指導者層からは産業構造の変化が衰退の理由とされることがあるが、これは統計調査からは支持されない。以下の衰退の要因として4点を考察する[※論文中では2点だが論旨から紹介者が再構成した]。(1)増産技術を謳いながらも成果を出せず、農民の関心を失った。(2)失敗事例(たとえば下久堅村事例)に対して、農法が不安定な技術であることを直視せず、失敗の理由を階級闘争というイデオロギーに求めた。(3)農林省が推進した「保温折衷苗代」が普及した。(4)ソ連でルイセンコが失脚し、影響力がなくなった。
  • スターリン批判以降にも『ミチューリン農法』誌(旧『伊那の農業』)は発刊されつづけ、菊池はミチューリン運動の政治色を排し技術運動を目指すようになるが、すでに技術としての信頼性は疑われていた。
  • まとめ。レッドパージと同時期のミチューリン運動の流行は、菊池が武力闘争を主張する共産党主流派に従わず、技術運動によって平和的に社会改革を行うことで共産党の復興を目指したことと関連する。また、十分に確立されていない農業技術を農学者が推進したという特徴がある。
  • しかしながら、ミチューリン農法が生物をとりまく環境について意識を向けたところは重要。
  • 『伊那の農業』の詳細分析、科学者と農民のかかわり、農本主義との関係については、今後の課題。

《感想》
なぜ長野県の下伊那地方がミチューリン農法の中心地になったのかずっと疑問だったのだが、それが姻戚関係によるものだったということで解消することができた。論文は運動の当事者たちが何を考えていたのかわかり、大変面白い。ただし、若干論証が甘かったり、それまで出てこなかった話が急に出てきたりと、論旨がとりにくい箇所があるのが残念、特に衰退の要因が複合的という主張が個人的には納得できていない。単に別の農法に駆逐されたように読めるからだ。また、ミチューリン農法について「生物をとりまく環境について意識をむけた」ことが重要と積極的に評価しているが、それがいったいどういうことなのかも含めてよくわからなかった。面白い話が満載なので、こうした点は今後の研究に期待したい。もちろんここで紹介しきれなかった事実や考察もあるので、興味のある方はぜひ実際の論文を手に取られたい。

※誤字を修正しました。ご指摘ありがとうございます。

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